880万円...。
この数字からこの物語は始まります。
第1話はこちらからご覧ください。
現在に影響する生い立ち
風俗業界に足を踏み入れた事や直接的な原因に関しては、全てが私の生い立ちに関係しているとは思いません。
しかし全く関係していないのかと言えばそうでも無いのです。
一時的な応急処置として風俗業界で何とかするという事であれば、もしかしたら何かの軽い影響でという事もあるかもしれませんが、私の様に長期に渡ってその場所に居座ってしまうという、そんな経験をした人にはやはり、生い立ちが少なからず影響していると思います。
母が出て行った後の「可哀そうな子」
その目で色々な人から見られる敗北感という何とも言えない感情は親になった今、決して子供には味合わせたくはない感情です。
その感情を子供に経験させる訳にはいかないので、その風俗業界に入って何とか家族、家を上手く運営したいと思わずにはいられなかったのかもしれません。
家政婦さんが家に来てからは、よく分からない家族関係でした。
外から見たらまだ母親との離婚も成立してはないですが、それは他人からは分からない事ですし、父が新しい女性を家に入れた様に見えます。
友達からは家政婦さんの事を「誰?」と聞かれます。
いちいち答えるのが面倒な程聞かれました。
小学校の参観では家政婦さんが参観日に1度来たので、たちまち学校での噂になります。
遠足のお弁当は母親が居ない事を可哀そうに思ったのか、友達のお母さんが私にお弁当を作ってくれたりもしました。
その家政婦さんの手料理がとても酷いもので、田舎から紹介で来た為、田舎の料理が小学生の私にはとても嫌だったのです。
それからは参観日の連絡の手紙は父には見せなかったですし、遠足は仮病で休み運動会も来なくていいと父には言ってました。
次女が父親の不倫相手の子供だった
そのころ、驚く事実が発覚します。
私の姉2人は私より10歳近く上で年子なのですが、下の姉は父親が外で作った愛人の子供だったのです。
私の母親が子供として引き取った子供だという事を私は、母方の祖母から聞く事になりました。
母親が出て行ってから、追い打ちをかけるように下の姉が異母姉妹という全く知らない事でしたし、本当にびっくりしました。
いわゆる普通の3姉妹という意識でずっと育っていたのですが、その事実を父も下の姉に告白してしまい、それから家の中は母親が出て行った時以上に殺伐としたのを覚えています。
次女はそれからは出て行った母を恨むようになり、父の愛情を1人で独占しようとしました。
そこから長女は私を庇って色々な話し合いを父にもしてくれたり、私が父からの愛情を受けることを嫌がった次女からの理不尽な言い分を突っぱねたりもしてくれていました。
そしてどんどん家族が二手に分かれるような構図になってしまったのです。
家はそこそこ裕福だったとは思います。
父は車が趣味でレクサスやベンツな高級車がいつも会社の前にはあり、身なりも綺麗にしていました。
父は欲しいものは何でも買ってくれた記憶もあります。
しかしその裕福さは小学生の私には意味が無かった事も、今となっては理解しています。
コートが欲しいと言えば小学生の私に10万のコートを買って来てくれ、塾に行きたいと言えばすぐに通わせてくれました。
母親に会ってはいけないのなら母親の事を考えない様にしようと、一生懸命他のことで気を紛らわせようと、当時の私は自分の気持ちを何とかコントロールしようと精一杯。
小学校5年生の時、私は初潮が来ました。
知識もなく母親も居ない中、長女の姉に「お姉ちゃん、生理きたかな?私。」と伝えます。
その時、家政婦さんが割って入ってきて、「小学生でそんなはずない!!初潮なんか早すぎるわ。病気ちゃう?病院行ったほうがいい。」そう言われて、とても悲しい気持ちになりました。
間違いなく初潮だったのですが、その頃から家政婦さんの私に対する態度が変わってきたんです。
私の仲良しの友達の批判をしたり、私が何かを食べていたら「太るよ~」と言ってきたり、私がこっそり母親に手紙を書いていたり電話をしていたりしたら、父親と下の姉に告げ口をするようになりました。
今思えば嫌われていたのだと思いますが、当時は私も家政婦さんに対しては余り良い態度ではなかったのです。
そして極め付けは夜中に父と同じ布団に入っている家政婦さんを見てしまい、自分の中の父親に対する気持ちと、家政婦さんに対する気持ちが完全に変わってしまいました。
その事を姉2人にも伝え、それぞれ父に訴えてはくれたとは思いますが、残念な事に何も変わりません。
その時に自分はもしかしたら1人かもしれない。
父親も私より家政婦さんの方が大切なのかもしれない。
姉2人が何かを変える事は出来ない。
そう思ったのかもしれません。
母親が居た頃の普通の日常には二度と戻れないんだと、悲しいですが認めなくてはいけない状態でした。
私の逃げる場所が無くなった瞬間です。
子供が育つとき親は子供に対して、自分の事より大切だという感情が沸きます。
これは普通ですし正常な事なのですが、私は自分の事より私を思ってくれる人に恵まれずに幼少期を過ごして来たので、その経験を反面教師にし、生きる糧にしてきたと言っても過言ではありません。
中学入学は転機
父親と母親は別居生活。
そして私は母親に自由に会えず連絡も簡単には出来ないまま、中学に入学します。
母親と父親の別居も5年に投入していました。
中学生になる事への不安なんて全くありません。
むしろ生活の拠点を外に移すチャンスだと、無意識に思っていたのです。
外で沢山の楽しみがきっと見つかる。
そして大人になって行くような気分でした。
その頃既に気持ちは家の外で友達も沢山いました。
しかし見渡せば友達のほとんどが、家庭の環境の良いと言える子がいなかったんです。
どうしてそんな子とばかり仲良くなるのか。
やっぱり家に居たくない子達が自然に集まるんだと思います。
京都から親の離婚で転校してきた子と凄く仲良くなりました。
父親に付いてきたと言うその女の子。
事情も知らない私が寂しそうに信号待ちをしてるその子に声をかけたのが始まりです。
その子とは色んな話をしました。
やはり環境が似ている子には、私は色々な話をする事ができたんです。
学校に行けば友達に会える。
間違いなく私の居場所があると確信していたのです。
家にいる時は私は誰にも相手にされていない様な感じで、家政婦さんが作る食事を残しても、家族は私を叱ることも無く、思春期だから難しい年頃なんだとそんな感じでした。
そんな時でも長女の姉がいる時は、何だか嬉しかったのを覚えています。
当時長女の姉は大手の企業の副会長秘書をしていました。
綺麗な服に身を包みいつも良い香りを纏って居たのを覚えています。
寝る前に会社であった出来事を聞いたりして、違う世界を私に毎晩話をしてくれていました。
大企業の役員さん達の話が、私にとっては異次元で大好きでした。
姉なりに段々と変わっていく私を心配し、どうしようか悩んでいたのでしょう。
私も姉には友達の話はしていましたが、姉が心配しそうな事は省いて話をしていたと思います。
学校は休む事無く登校し、月曜から日曜までテスト期間中であってもそれも、休む事無く友達と遊びに出かけました。
友達の家に数時間もいたり、カラオケに行きマクドナルドで数時間喋る、
毎日そんな事の繰り返しでした。
今思えば中学生時代、1日家にいた日は無かったと思います。
風邪をひいても風邪が理由で外出禁止になってはいけないので、熱があっても隠して学校に行き、遊びに行ってました。
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