エピソード

【39話】自己犠牲と母の選択

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この数字からこの物語は始まります。
第1話はこちらからご覧ください。

自分さえ我慢すれば

風俗業界で働き家庭を守っていく事に少し疲れたり、私自身の弱音を聞いてほしかったり、家族以外の主人以外の人に話を聞いてほしいと思って母親に話そうと思ったのが、そもそも私の間違いであったと時間がたった今、分かりました。
当時家庭を守っていく中で闘っている中で疲れ切っている中では、とても私には考えることができませんでした。
今風俗業界で働きながら何とか生きている女性にが中々自己肯定ができなくて、色んな思いこみや精神疾患を抱えて生きているのを目の当たりにしてきた者として、少なからず影響している生い立ちや環境を見直してみたらきっと変わるになと、今になって答えが出せたような気がします。
その私の中学生時代の摂食障害、家政婦さんとの同居、この頃に出来た心の傷が結婚をして主人との子供が出来た後でも尾を引いていたのは間違いありません。
どうしても家庭を守りたくて家族の笑顔を最優先にしたから、風俗業界という場所に私がそこに飛び込むという事にもなったのでしょう。
自分さえ我慢したら皆が助かるなんて事を思ったのです。
自分で言うのも何ですが物凄い信念だったと思います。
私の母親が居なくなってから家族の中での本当の笑顔は消えてしまい、疑った事もない次女の姉との姉妹関係が異母姉妹だったという事実、家政婦という他人に気を使って生きる事を10歳足らずの子供が思春期、青春時代までしていたのですから、何事もないように順風満帆に私が成長するなんてありえません。
その経験があったからこそ主人と一緒に子供を最優先に考え、家族は一緒にという気持ちが人1倍強くあり、守りたくて仕方が無い物だったのです。

母が隠していたこと

父親に殴られ蹴られ階段から落とされるのは、決まって長女の姉が留守の時でした。
勿論私が原因を作ったのですが嘔吐したのが見つかった時、父親の財布からお金を取った時、母親に会いに行くのを見つかった時、電話しているのを見つかった時などです。
次女の姉は腕組みをしながら、倒れ込む私を見下ろしていました。
家政婦さんも同じように私を見下ろしていました。
家中に響く音がしても会社で働く従業員は皆見て見ぬふりをしています。
こんな事が数年に渡ってあったのですが、その事を離れて住む母に話をしても「自分で児童相談所助けを求めなさい」そう言われました。
そしてもう1つ、私は裏切られた事があったのをその頃知る事になります。
母親が出て行ってからは母は祖母の家で暮らしていたのですが、夜父の家からこっそり電話をすると、「お母さんは居てないよ。」そう言われることが何度もありました。
祖母に必死に問いただすと、近くのマンションを借りてそこで暮らしていると何年かしてから知ったのです。
母はマンションの住所も電話番号も教えてはくれませんでした。
その時は、私が弱音を吐かないためかな?
そう良い風に解釈していたのですが、そうでは無かったのです。
母は家から解放され自由になり私の母親で居る事よりも、女として生きる事を私の知らない間に選んでいたのでした。
父と母の離婚は成立しないまま、別居という形の宙ぶらりんな状態が長く継続していましたが、段々と色んな問題が絡まっていた事を知ります。
きっかけは母の親友が私の父を誘い男女の関係になった事が原因です。
しかしその母の親友は自分が父親を誘った事を母に言うただけではなく、私の父を誘った時に私の母親の浮気をネタに父を誘っていたのです。
母は父の女性関係のだらしなさに疲れ、母も女性になりたいと思ったのでしょう。
母も長年付き合っている人がいたのです。
父は既に興信所に調査依頼し報告も貰っていました。
その母の親友と父の関係はすぐに切れた様でしたが、母の親友のリークで家族の隠していた問題が噴出したのです。
母にしてみれば父の作った愛人の子供を引き取って養女にし育てたという。
いわゆる貸しがあるとでも思っていたのでしょうが、父からしてみればそれは済んだ事であって何の免罪符にもならないという事です。
それより進行形で関係がある母の浮気を父は許せなかったのではないかと思います。
しかし子供からすれば、私からすれば父も母もどちらもNGです。
けど当時私は生きる場所を自分で確保できる年齢ではなかったので、絶対的な力を持つ父のいう事を聞くしかなかったのです。
どう考えてもだれが見ても愛人のような家政婦さんがどんなに嫌でも、生きて行くためには我慢して暮らすしか方法はありませんでした。

家でも学校でも暴力

そして摂食障害はますますひどくなりました。
のどに指を突っ込んで食べたものを吐き出すのに、手の甲には歯が当たり、決まった場所に傷が出来ます。
何度も何度も繰り返すので、その部分は皮が厚くなり胃酸で手もボロボロに。
吐いている時は苦しくて苦しくてもう情けなくなり、悲しくなります。
しかし胃の中が空っぽになると凄く爽快で少し飢えた感覚になり、それもとても気持ち良かったのです。
そのころ毎日死んでしまいたいと思っていました。
私は問題ばかり引き起こすろくでもない人間だと、毎日そう言われ叱られていたからです。
学校で校舎の階段を上がるのも筋肉が衰えていたせいか、一気には上がれなくなります。
お昼のお弁当の時間も一切の食事を摂らず、自宅では家政婦さんの出してくれた料理を残さずに食べ、全てトイレに流していました。
そんな時、母親が頭によぎります。
「お母さん、会いたいな。」
「私が摂食障害なのをお姉ちゃんから聞いてるやろうけど、心配してるかな」
「お母さんに電話してるの見つかったから殴られたのに、お母さんは何で何もお父さんに言ってくれないんやろう。」
吐きながら、そんな事を思っていました。
その頃、付き合っていた彼氏がいました。
違うクラスの長身の男の子で身振りや口ぶりが大人っぽく、唯一私の家での不満を聞いてくれた男の子でした。
勿論摂食障害だとは言う事は出来ませんでしたが、めちゃくちゃな家庭事情は話す事は出来ました。
ただ驚く程束縛をしてくる人で、同級生の男の事話すだけで校舎の死角に連れていかれ、殴る蹴るの暴行をされます。
それが当時は愛情表現だと私も信じきっていて、彼を疑う事もありませんでした。
誰かに気が付かれないのかといえば、父にも虐待まがいの暴虎を受けていたので常に体中青あざがありましたし、それが顔面であっても父なのか当時の彼氏なのか、この傷はどっちから受けたものか?なんてことは、私自身分かりませんでした。
学校は公立の中学校なので勿論男の子もいますし、少しは喋ったりもしてしまいます。
結果毎日父からも彼氏からも、病院送りにならない程度に殴る蹴るの暴行でした。
中学時代の私の写真には、いつも大きなあざがある私が力なく笑っています。
そんな生活をまた変える出来事があります。

姉の結婚

長女の姉が当時の彼氏と結婚を考えてるというものです。
とても喜ばしい事ですが私にとっては唯一の私を守ろうとしてくれた、庇ってくれた姉が居なくなるという事は死活問題。
それでも心が躍るような幸せな気持ちになりました。
どんな結婚式だろう、お姉ちゃんどんなにきれいだろう。
どこに住むんだろう。
中学生の私は長女の姉が結婚した後の私の生活より、一緒には住めなくなりますがその後の姉の幸せを、何故かわくわく想像しました。
しかしその姉の結婚には想像を超える様な、色んな試練が付きまとう事になりました。
当時姉は23歳、私は14歳でした。

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若くして二児の母になった私は風俗の世界に飛び込む決断をしました。夜の世界の「光」と「影」を自身で経験しました。家族を守るため、風俗とともにがむしゃらに駆け抜けた6年間の濃密なコラムが皆様の元気に変わればと思い執筆活動を続けて行きますのでよろしくお願いします♪ Rie♡"

 
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