ライター紹介

【新ライター自己紹介】20人以上のパパがいた風俗嬢“すぅ”ライターデビュー!前編

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はじめまして!
すぅと申します。
この度、ライターデビューさせていただけることになりました。
毒親持ちで児童養護施設出身、10人のパパを持ち、ソープでは本指名率67%を達成した
波乱万丈の“すぅ”の自己紹介に、しばしお付き合いください!

プロフィール

20代半ばのA型、京都生まれ。
趣味:ピアノを弾くこと、読書、YouTube鑑賞、映画鑑賞、ひとり○○
どこでもひとりで行っちゃうタイプです(笑)
焼肉でも、回転寿司でも、ディズニーでも、海外でも…(笑)

母はいわゆる毒親でした!

私の母は、過干渉で子供を自分の所有物のように扱う、いわゆる毒親でした。

私が自室で何をしているのか知るために監視カメラをつけ、
私がどこにいるか把握するためにGPS機能のついた携帯電話で私を監視し、離婚した父がどれほどダメな人だったのかと悪口ばかり言いました。

一度怒ると手が付けられず、
「いいかげんにしぃやぁぁぁ!!!」とぶちぎれ、食器を割ったり物を投げたりすることもしばしば…。

ちなみに、私の一番幼いころの記憶は、母がキレて食器棚をひっくり返す記憶です(笑)
弟が生まれる前だから、2歳くらいの記憶だろうな…。

母から言いつけられたことをしないとご飯が与えられなかったり、タイル張りのお風呂場で何時間も正座させられたり…
といった体罰も少なからずありました。

とにかく母の理想の娘になってほしかったらしく、その道から少しでも離れて行こうものなら、ありとあらゆる手段で邪魔をしてきました。

それでも、外出中の母は、基本的に“良い母”を演じていたのでなかなかまわりの理解は得られず、
「私がおかしいのか…」と悩みました。

母は「あなたのことを思って!」と言い、
周りの大人は「お母さんがあなたを思って言っているのだから…」と言いました。

まぁよく言うことですよね(笑)
その言葉が今でも私を苦しめてくることがあります。

いろいろ葛藤はあった私ですがそれでも母に耐えられなくなり、
中学3年生の時に自ら児童相談所に駆け込み、数か月の相談の上、荷物をまとめて家を出ました。
高校の合格発表の日でした。
計画的犯行です(笑)

児童養護施設での生活

児童養護施設は
・仕切りはあるけど4人部屋
・お小遣いは月5000円
・門限は18時
・消灯は高校生なのに22時
・食事やお風呂の時間も細かく決められている
まぁまぁ窮屈な生活でした。

いろんな環境で育った子どもが集まるので盗難などもありましたし、喧嘩もありました。
携帯電話の所持も禁止で、それが一番辛かったです(笑)

でも、春はお花見に行って、夏は浴衣を着て出かけ、秋は紅葉狩りに行き、冬は温泉とスキー旅行に行く生活はとても楽しかったです。
習い事として、茶道や陶芸などもありました。

そして何より、常に監視されない生活気分で怒られることのない生活三食保障されている生活はとても快適でした(笑)
今でも職員さんとご飯にいくこともありますし、「いつでも遊びにおいで!」と言ってもらえる第2の我が家です。

20人以上のパパがいた


高校卒業と同時に児童養護施設にいられる措置年齢が終わってしまうため退所しました。
奨学金を借りつつ、親戚の家から大学に通い、アルバイトも頑張る生活をしていたのですが、すぐに破綻しました。
当たり前ですよね…。

困った私がなぜか駆け込んだのが、当時はまだそれほど有名ではなかった交際クラブでした。
パパ活という言葉が出る前だったかもしれません。

19歳現役大学生だった私は、オファーに困ることはなく、最大で20人ほどのパパを抱えながら学生生活を送りました。

3年ほど経ったとき、大きなトラブルが…。
パパの奥様が不貞行為と訴訟を起こしてきたのです。
結局私は既婚者だと知らなかったことで和解し、慰謝料を払うこともなかったのですが、この一件で怖くなってしまった私は、交際クラブはほどほどに、風俗業界に足を踏み入れることになります。

現役で働く吉原ソープ嬢。毒親に育ち。高校から児童養護施設暮らし。その後親戚の家から大学に通いましたが、早く自立するため交際クラブに登録。最大20人以上のパパがいましたが、個人間の契約故のトラブルが面倒になり風俗業界デビュー。初めての店では8時間待機でフリー1本しか付かない状態でしたが、2年かけて現在の店では『本指名率67%』を達成しました!現在はストレスなくお付き合いできるパパ10名と並行してソープ嬢として勤務中です。
最近ADHDの診断が出たので、そちらの視点からも発信出来ればと思っています。

 
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